T-07



昨日は結局、何も食べなかった。帰りの電車の中で、端のイスに付いた壁に頭を預けながら、どこを見つめているわけでもない私の耳にイヤホンから流れる音楽も、何も、私の心落ち着かせるものは無かった。ただ自分の知らない人であふれる帰宅ラッシュの電車の中で虚無感だけを感じていた。家に帰っても、おかえりなさいと言う声は無かった。リビングの電気は消えていた。家は真っ暗だった。手探りで電気をつけるスイッチを押すと、遠くの部屋に寝転がった頭を見つけた。スースーと寝息を立てるその体に、帰ってくるはずもないのにただいまという言葉を掛け、風呂で体を洗うと、そのまま布団に入った。昨日は何を考えていたのか、よく覚えてない。ただ、目を開けても、目をつぶっても、目の前にも、瞼の裏にも浮かぶのは、2人の男女の背中だった。
翌日である今日、5限で授業を終えた私はある建物の前で悩んでいた。ホームルームを終えて、学校をすぐに出てきた私は青空の元、登勢塾の入り口の横で立ちつくしていた。

今日、塾に行くか。
悩んでいた。

今日は、総悟先生の出勤日だった。

今日の私は総悟先生に会って、いつもの私でいられる?
昨日と変わらない態度で総悟先生に接しられる?
目を見て話せる?

そんな自問を繰り返す私の足はなかなかその中へと踏み入れることが出来なかった。
その代わりに、履きつぶした革靴をぼうっと見つめていた。

「ちょっとォ、そこのお姉さ〜ん。入らネェの?」

顔を上げ、革靴から声の主へと目を移すと、目の前に立っていたのは、悩みの種である自分の想い人、沖田総悟であった。

「なんだ、やっぱりさんじゃねェかィ。」

いつも通りの表情に私の気は更に重くなる。
いつも通りなのは当たり前だ。だって総悟先生は知らないんだから。昨日の自分の行動を私に見られていたなんて。

「あ、いや、ちょっと色々考え事してて。」
「ふーん。」

そう言って塾へ上がるエレベーターへ向かう背中を無意識に追ってしまった。
なんで私、のこのことついてきてんだ。塾、入ってんだ。心の整理、ついてないのに。

チン、という音と共に扉が開いたそれに私は乗り込んだ。

いつもなら、「そのボウシ、お洒落ですね。」なんて欠かさず掛ける褒め言葉の一つも掛けられないまま、エレベーターという2人きりの密室にひどく居心地の悪さを感じていた。

「ちょっとは電気の単元も飲み込んできたかィ?」

話し掛けてくれる総悟先生の声もいつもと違って色の無いものに聞こえて、はい、おかげ様で、と微笑しながら返すので精一杯で、目に映る総悟先生に今まで感じたことの無い複雑な何かを私は、ただ感じていた。
階に着いて、「そんじゃあなァ。」と廊下で総悟先生と別れると、たまたま空いていたいつもの私の席に腰を下ろした。

今まで会いたいと思って4時間際にコンビニに出掛けたことまであるのに。
今までそれでも会えたことはなかったのに。
なんで今日に限って会ってしまったんだろう。

人の運命ってもしかして、誰かがいたずらにコントロールしているんじゃないかな。




カバンを肩に掛けたまま、二つ並んだ机を見つめた後、ずるっと腰を前へ出して、イスに浅く座って天井を見上げた。今更ながら、さっきエレベーターで向けられた総悟先生の表情を思い出す。

でも、やっぱり嫌いになんてなれないよ。

天井を睨みつけながら、心の中で呟くとようやく勉強へと気持ちが入れ替わる。

折角来たんだから、勉強しないわけにもいかないか。



流されてる場合じゃない。
そう自分に言い聞かせながら、私は肩からカバンを下ろし、昨日復習できなかった総悟先生が教えてくれた問題の続きから解き始めようと、問題集を出すのであった。







総悟先生にゆっくりと教えてもらったおかげもあってか、その単元はスラスラと進めることが出来た。これならわざわざ今日やらなくても言いか、とキリのいいところで問題集を閉じると、ちょうど飲み物が空になっていることを思い出し、気分転換がてらにコンビニに出掛けることにした。

ケータイと見ながら、エレベーターを降りると、ポンと肩が当たってしまった。カーリングのストーンのように弾きあった私とその人は、お互いに顔をあげ、見つめあった。「すいません。」と言いながら心配そうな顔でこちらを向いてきた彼女に私もとっさにこちらこそすいませんという言葉を返すと、頭を下げた少女はそのままエレベーターは彼女を連れて昇っていった。嶋田さんだった。

神田さんといい、嶋田さんといい、総悟先生といい、なんだろう。
この仕組まれたようなタイミングは。
どうしてこうも連続して彼らに出くわすんだ・・・。やっと忘れかけたって時に、見計らったように次から次へと入れ替わりで現れるもんだから、いつまで経っても昨日のことが忘れられない。

はぁ、と深いため息を吐きながら、コンビニへと足を向ける。

ため息をつくと、幸せが逃げていく。

だったら、私は昨日から何度幸せを逃しているんだろう。



リプトンの紙パックの紅茶と私の常備するガムを買って、塾へと戻っていった。








・・・・・next?