T-06



「総悟ぉ、もう今日終わりの時間だよ〜?」

甘ったるい声が、下を向いた総悟先生とそれを隣の席で見つめる私の後ろから不意に降ってきた。折角の総悟先生との時間を邪魔するなんて、と不愉快になりながらもそれを顔に出さぬように振り向くと、総悟先生は「おぉ、そうかィ。」と言って席を立って背伸びしながら、その子のいる廊下へと歩いていく。私はそんな総悟先生の背中と「ねぇ〜、さっき後で来るって約束したじゃーん。」なんて甘え声を出しながら頬を少し膨らませ、上目遣いで総悟先生を見上げるその少女をただ食い入るように見つめていた。
が、くるっと総悟先生が振り返る。

わっ、いっけね。

ビックリしながらも食い入るような目線を直したところで、総悟先生と視線がぶつかった。

「そんじゃ、さっきの問題は良く復習しておくこと。お疲れさん。」

人差し指を向けられながら、その言葉を放たれた私はポカーンとしながらも、必死にお疲れ様ですと言葉を繋ぐと、今度こそチューター室へと歩いていく総悟先生と彼の白衣を掴んでいるその女と一瞬目が合った。人を蔑むような嫌な目をした後、見下すような笑みが自分の目で確認出来た時には、私の眉間にも皺が寄る。神田さんだっけな、嫌な女。

「オーイ、カギ閉メルゾコラ。」

キャサリン副塾長の大きな声ではっと我にかえった私は急いで帰る支度を始めた。






塾を出て、まず母親に電話を掛ける。望むことではなかった。だがしかし、それをしなくて面倒なことになるのなら、仕方あるまい。電話をしなくてああだこうだ、学校からの塾、という一日で疲労困憊の心身にさらに長々しくてネチネチとした説教まで垂らされちゃあ、たまんない。
私は、いつものように発信ボタンを押した。

「あ、もしもし?だけど。今塾の帰りだよ。ご飯って済ませた?」

「今?いつもより遅いじゃない。本当に勉強してたの?」

「・・・」

「私もさっき仕事から帰って、今日は疲れてるの。ご飯作ってないけど・・昨日カップヌードルなら買っておいてあるからそれ食べればいいじゃない。」

「え・・また?」

「じゃあ、生卵とご飯はあるから卵かけご飯でも食べなさい。疲れてるの!人のご飯なんて作ってるほど、私も暇じゃないし余裕も無いの。もうそんな歳ならご飯くらいで母親に迷惑掛けないでちょうだい!」


怒声は私に一言の言葉も返させる暇もなく、一方的に放たれ、いつの間にか耳に押さえつけていたケータイからはツーツーという電話が切れたことを知らせる機械音が流れている。
こんなことはザラにあった。

サラリーマンやそれを誘うキャバ嬢、女の子に声を掛けるホスト、奇抜な髪色をした男か女かもよくわからないビジュアル系バンドマンらしき人、その腕に絡みつく尻軽そうな品のない女、それらの人々が忙しなく歩き、通り過ぎてゆく道の中で、私は呆然と立ちつくしていた。

「あれ〜?ちょっとォ?帰らないと危ねェから早く帰んなさい?」

自分の横に人の立ち止まる気配がして、近さからしてその言葉は自分に掛けられたものなのだとやっとこさっとこ気付いたところで、その声の主を確かめようと顔を上げると、そこに立っているのはさっきの銀髪のひどくやる気のなさそうなあの男だった。
ぽかーんと何の言葉も返さずに立っていると、「高校生がこんな時間うろちょろしててもいいことねェんだから早く帰れって。」と力のない声を掛けられ、はぁとため息をつきながら、すいません、と謝ったものの、塾長の知り合いとはいえ、得体の知らない人にどうこう言われる筋合いはないと思い、目も合わせず、その後ろの景色へと目を移すと、私の目は自然に見開かれた。


あれは・・・総悟先生と・・・さっきの女・・・?


私の視線の先に見えたのは、あのミルクティー色の頭に、さっき見た黒いポロシャツにスタイルのわかる細身を強調したジーパンを履いた男性と、その腕に絡みつくようなミニスカートの女だった。

そんな私の表情の変化に気付いたらしきその人も、私の見ている方向に体を向き返る。

そして、入っていったビルはホテルの看板の付いたビルだった。


私が見間違えるはずがなかった。ビルも『ホテル』とはいえ通り的にラブホテルなことも確実。女の着ていた服もさっき廊下で見た洋服だった。さっき見た洋服を着た2人組がそう多くこの町居合わせるとは考えにくい。確率は0に等しいだろう。確実だった。
けど、信じたくはなかった。
私の肩に掛けたカバンを持つ手がふるふると震えだして、口は自然に開いてしまったまま塞がらず、足も動かなかった。
「あちゃー、ありゃラブホだわー。」という隣に立つ銀髪の男の声だけが、ただ私の耳にしっかりと入ってきた。


「おい、まぁ見なかったことにしとけや。とりあえず、お前も帰んねェと母ちゃん心配するだろうから。早く行くぞ。」

背中をポンと叩かれて、自分が何をしていたのか、これからどこに行こうとしていたのかをようやく思い出す。
どうやら、駅まで一緒に行くということらしい。
少し前を歩きながらも、ちょくちょく私がいるか振り返るその人と、私は何も喋らないまま、改札へと足を進めた。私の使う電車の改札まで来たところで、今まで一切開かなかった口をようやく開けた私は、ありがとうございました、とだけ言って頭を下げると、「おー、気ィ付けてなァ。」なんて背を向けながら手のみをこちらに振りながら歩き出すその背中を見つめながら、一体誰だったんだろうと思いつつ、私は改札に入ったのだった。








・・・・・next?