T-04
私は、塾の近くの喫茶店に入って、席に腰を落ち着けたところでやっとふうとため息をついた。
苦しくて、息がずっと出来なくて、ようやく吸う喫茶店の空気は少し煙草臭くて、むせ返る。
あぁ、制服が煙草臭くなっちゃうなぁなんて天井へモクモクと上がる煙草の白煙をぼぅっと見ながら思った。
無我夢中で駆け出した。けど、ちゃっかり私の手にはお財布と単語帳、カーディガンのポケットにはケータイがあった。
こんなことは前にも何度かあったからだ。
「今日、最後に単語チェックやってもらおうと思ってたのになぁ・・・」
そう呟いて、涙がこぼれないように上を向いて、天井のライトを見つめたけど、眩しくて、今度こそ私の頬を透明の雫がぬらしていった。
毎日欠かさないでやらないと意味が無いと自分に言い聞かせつつ、次、いつ総悟先生にチェックをやってもらえるかな、なんて、こんな目に会って尚、考えてしまう自分を打ち消すように英語を目で追ったけど、結局全然頭に入ってこなかった。
お気に入りの抹茶ラテを飲み干した私は、ふと時計を見ると9時になる15分前で、ちょっと落ち着いたことだし戻ることを決めると、席を立つ。
喫茶店を出てすぐに、ポケットに常備している香水を耳元と腕に掛ける。
それでもやっぱり煙草臭いな。
苦笑しながら、来た道を戻っていると、塾へ向かう曲がり角でキョロキョロと辺りを見回す男の人が立っていた。遠くから見てもすぐにわかりそうな銀髪に、今時逆に珍しい細いフレームのメガネ、ゆるゆるのネクタイのその人は、どう見たって怪しかった。話しかけられまい、とそおっとその人の横を通り過ぎようとした。
「ちょっとォ、そこJK〜。」
ビクッと体が自然に止まった。JKなんて予備校街ではないここにはなかなかいないははずだ。
けど、なんで私止まっちゃったんだろう・・・
自分の素直な性格を恨む。
コツコツと靴の音を立てながら、その男は近付いて来る。
ヤバイ、逃げなきゃ!!
そう脳が伝達している。やっとの思いで一歩足を踏み出したところで、パッと腕を掴まれる。つうっと冷や汗が背中で伝った気がしながら、恐る恐る男の方を見ると、男はポケットから何かを探している。
ヤバイ、これ。何出すの?ナイフ?眠らせるクスリ?
どうしよう・・・!
私の心臓はバクバクと脈を打っていた。でも、こんな時に限って、いざ逃げようとしても足がすくんで動けない。声も出ない。何も出来ない状態でいると、隣から「あ、あった。」なんて聞こえて、その男はポケットから一枚の小さな白い紙を取り出した。
「この塾知らねェ?」
例の白い紙をチラと見ると、なんとそこには『登勢塾 塾長 寺田綾乃』と書かれているではないか。
寺田綾乃は確かにうちの塾の塾長だ。
知り合いなのだろうか。
寺田塾長の人柄的に、ヤバイ人とは知り合ってなさそうだし、軽々しく名刺を渡すとも思えないけど・・・。
いつの間にか開放された腕に少しだけほっとしながらも、「この辺のはずなんだけどォ・・」なんてブツブツ独り言を言うこの男に、私はこの人にバレないように小さくため息をついた。
「私、その塾の生徒で、今から行くところですけど。」
まだ警戒心を解いてないとはいえ、もし塾長にとって重要な人物だったら塾長がかわいそうだから、本当のことを打ち明けると、
「あ、ホントに?!!よかったァ、さっきからいくら通りかかるJKに声掛けてもシカトされるどころか全速力でダッシュされてて困ってたところだったのよ。」
そりゃ、そうだろう。私もそうしようとしたのだから。
しかも話し掛けたの全部JKなんだ・・。
頭をぼりぼりとかくその銀髪の男はどうも何を考えているのかはわからないが、何故かうまく毒を抜かれてしまう。
塾長はどんな用事があってこんな怪しい奴を呼んだんだ?
頭にはたくさんの『?』マークを浮かべながらも、道案内をすると「おゥ。」なんて間の抜けた返事が背中から聞こえた。
塾長室に着いて、そのドアをノックしようとその男が手を上げたので、私も自習室に戻ろうかと背中を向けたとき、
「ここまで案内してくれてサンキューな、ちゃん。」
え?と小声をもらして振り返るも、男は既にノックをして扉の向こうに目を向けていた。
なんで私の名前を知ってるんだろう?
疑問は増えていくところで、さん、と声を掛けられる。この声は確認しなくてもわかる。
どんな目に会った後だって、この人に名前を呼ばれて、私は振り返らないなんてことは無い。
「はい・・」
でも、目を合わすことまでは出来なくて、顔の代わりに総悟先生の足元を見つめ、黙りこくってしまう。
すると、下を向いた私の目の前に、「コレ。」という声と共に一枚の紙が差し出された。
「さっきの、さんの苦手なタイプの問題だったし、どうせまだ解決してないだろうと思って、図も増やして解説作ってみたんだが・・・いるかィ?」
白いいつもの裏紙に几帳面に図と式が色分けして書かれていて、何を表す式なのか図と式の色が対応するように書いてある。日本語で解説も詳しく書いてあるその紙に、私は一気に胸が熱くなった。
「ありがとうございます!!!!」
パァッと気分が晴れて、自然に出来た笑顔と共にばっと顔を上げると、ピースサインでニカっと笑う総悟先生が私の瞳に映った。
あぁ、この人は・・・。
いつの間にか、さっきまでの憂鬱はどこか遠くへ消えてしまっていた。
「本当に・・本当に、ありがとうございます!!こんなに丁寧に対応してくれるなんて、私、スッゴク嬉しいです!!これ、絶対大切にします!」
「大切にするだけじゃなくて、ちゃんと理解までしてくれないと困りまさァ。」
困ったように眉は下げているけど、口元はいつものようなしっかりと余裕の微笑を浮かべている総悟先生。
「まっ、そんだけ。」と手をヒラヒラさせて、総悟先生は階段をおりて行ってしまった。
私は、胸がぽかぽかと温かくなる満足感と優越感と今にも間延びしそうな鼻の下と頬をなんとか表に出さぬよう、引き締めながら自習室の自席に座る。机に頭を置いて、手では紙が折れないように、でもしっかりと胸の前でそれを愛おしむように抱きしめながら、幸せの絶頂のため息を漏らす。
そして、3秒ほど目を閉じた後、ばっと背中を起こし、よしっと気持ちを切り替えて、シャーペンを握る。くるっとシャーペンを一回転させて、さっきはさんでおいた例の問題のページを開く。
「なんかいいことあったの?」
頭の上で山崎先生の声がしたけど、私は顔も向けずに全力で、はい!、と返事をするとふふっと笑う私に、山崎先生は「よかったね。」なんて言い残し、私の横を去っていった。
・・・・・next?
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