V-15
お茶を何杯か飲み終えて、桂さんの好意で出してもらったかぼちゃプリンを食べ終えた頃、スプーンを置くより大きな襖を開ける音が聞こえた。
「よっ」と笑って入ってきたのは案の定銀ちゃんだった。
襖を閉める為に後ろを向いたついでに「ヅラーお茶ーあったかいのー」と言う背中がこちらに再び振り返る前に急いで机に目線を変えた。
向かいに「よいしょ」という声と共に腰を落ち着ける気配を感じて、何も言えずにいると、また襖が開いて、店員さんがお茶を置いていった。
誰も喋らない静寂がチクチクと私の肌を刺してくるようで、痛い。
顔を上げられなかった。
「・・俺さァ・・」
ようやく破られた沈黙は、銀ちゃんの怒ってるわけでも、優しいわけでもない、酷く真面目な声だった。
「彼女と別れたよ。」
突然の情報提供に私は顔を上げる。
目に映る銀ちゃんの表情からはいつもみたいに私を笑わす為の話の前振りでもないことが読み取れる。こんな真剣な銀ちゃんを見るのは初めてで、でもそれ以上に、何故今こんな話をしてくるのか、何故別れたのか、皆目見当がつかなくて、私は何も言えないまま、まんまとその瞳に捕らえられた。
「俺、ちゃんが好きだ。受験戦争とか家族とのいざこざの中でも争うこととか弱いものにすがることなくひたむきで、真っすぐで、優しくて、可愛い。そんなちゃんが泣いてる姿、もう見たくねェんだよ。お前が傷つく必要なんてねェよ。・・今度は誰にしとけとかあいつはやめとけとか言わねェ。・・・俺にしろよ。ちゃんのことが好きなんだ。頼むから、俺のそばにいてくれって・・それで、今までみたいに笑ってくれよ。笑わせてやるから・・・」
そうやって、机に乗せられ組まれたままの私の腕を優しく掴んだそのぬくもりと、真っすぐに私を見つめるその瞳から逃れられなかった。
何も言えず、ただ私に真剣に、慈しむように、お願いするように、向けられるその瞳には、曇りもけだるさも迷いもない。
どこか遠くで階段をけたたましく下りてくる音がすると、銀ちゃんは私から手を放して、
「急に言われて混乱してるのはわかるんだけどさ、明日までに答えだして。塾で待ってる。」
そう言い残して、「トイレ。」と断って部屋を抜けると、入り口からバンを大きな物音を立てながら人が入ってくるのが聞こえたけど、私はただ銀ちゃんに握られた腕を見つめ、銀ちゃんの懇願に対する返答を探していた。
しかし、バンという襖が勢いよく開く音で、その思考も中断される。
そして現れた、そこにいるはずのない人物を目に映した。
自分の目に映るものが信じられなくなった瞬間だった。
息を切らした総悟先生は何も言わず、私を真っすぐに見つめながら近付いてくると、身動きできずにいる私の目の前に正座すると、その頭を畳に付けてひれ伏した。
「本当にすいませんでした!あんたの気持ちを踏みにじって、傷付ける言動をした俺は本当の本当に最悪な野郎でィ。すげェ後悔してんです。でも、後悔とかそんなんより、謝りたくて。謝って済むとか許してもらおうとかそんな図々しいこと考えちゃいやせん。散々傷つけといて、こんなこと今更言われたってどうしようもねェ・・それもわかってるんでィ!でも、言わせてくれ!本当に、悪かった・・・!」
畳に額を擦り付けて、必死で許しを請うようなすきな人のそんな姿に、私は殴る気も蹴飛ばす気も泣き喚いて責める気も微塵も起きなかった。むしろ、震えるその肩に何の言葉をどんなぬくもりを与えてあげれば、彼の心の震えも身の震えもおさまるのか、私はわからず、ただその場で硬直していた。
「まぁ、許してやる必要なくても、ちゃんのことだから許しちゃうんだろうけど、」
いつの間にか戻ってきた銀ちゃんが元の席に着いた。
「俺には謝罪、しないの?謝罪っつーよりお礼だけど。5日間君がトン面こいてた言い訳、俺が全部買っておいたんだけどなァ。」
「いやぁ、今言うかィ、それ・・・」
そろーっと顔を上げた総悟先生の目には苦しさを含んでいて、私はそのやりとりで初めて
総悟先生が塾を無断で空けていたことを知る。
銀ちゃんは総悟先生に呆れてると言いながらも、今回のことといい、なんだかんだ最後には必ず助けてくれる。
そのことを改めて確認する。
「とりあえず、無事でよかったわ。あとは俺の言ったこと考えておいてね。・・そしたら〜・・・ちゃんはおうちに帰って母ちゃん安心させて来い。そんで塾の先生としての俺にもう1回報告。で、忘れずに明日塾に来る。わかりましたか?」
不意に向けられた視線に少しドキリとしながら、コクコクと頷くと「いい子」と言われたので、何も言わず部屋を出た。
店を出る用意をする合間にもこちらを目で追いかける総悟先生の視線を痛いほど感じた。
部屋を出る際、一瞬目を向けるとその瞳と重なって、不安を宿すその瞳に少しだけ目元を緩めると、ほっとしたように口を開けた総悟先生が見えたので、今度こそそこをあとにした。
・・・・・next?
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