V-08



幸いにも、今日の出勤チューター一覧に土方先生の名はなかった。
もちろん、総悟先生の名前も。

そんな日はめったになかったとはいえ、総悟先生も銀ちゃんも土方先生もいない日もあった。けれども、そういう日に塾に来ることがなかったわけでもない。

いざ、勉強を始めて集中すれば嫌なことも忘れることが出来た。

科目選択が良かったのかもしれない。
何故なら、今開いてる問題集は英語の長文読解の問題だからだ。

もともと、総悟先生のいる日に英語はやらなかった。
理由は2つ。

総悟先生はあんまり英語は得意じゃなさそうだったから。
基本的に何でも出来るし、大学受験生の偏差値としてみればもちろん言うことはない程の知識は持っているものの、英単語の発音があやふやだったり、「〜って意味だったようなそうじゃないような・・」なんて時たま茶目っ気を忍ばせながら口に出すあたり、数学や理科に比べたら得意ではなかったのだと思う。

2つ目は、英語は和訳さえあればあまりに質問が出ないから。総悟先生がいるのに質問を作らずに時間を過ごすなんて勿体なさすぎる。

塾に来た意味がない、そう思ったはずだ。
ちょっと前の私なら。

だがしかし、今は違う。

選んだ理由はただ1つ。

あまり質問が出来ないから。

そう、以前までの理由と結果が摩り替わった。

以前は、質問が出来ないから英語はあんまりやらなかった。
でも今は、質問が出ないからこそ英語を選んでいる。

数学や理科なんてやったら絶対に総悟先生の影がちらつく。
そんなの今思い出したら、私はきっと平静を保っていられない。

だからこそ、質問の少ない、自習が可能な、総悟先生と勉強した経過が少ない、この英語を選んだ。

ノートに敷き詰まるアルファベットを目で追い、一文ごとにざっと要点を脳で訳す。本文を理解するのに必死になるように私はいつもよりゆっくりと丁寧に読み進めていた。


が、目の前にいきなり2枚のせんべいがカサッと置かれた。

私は突然の中断に頭を上げて、事の起こりである人物に目を向けるとはっとした。

「これ、ババアからの差し入れ。」

すぐにまた目を逸らそうとするけれども、それは銀ちゃんの言葉で阻止される。

「来てくれてありがとうな。でも、そんな態度取られると寂しいんだけどなぁ。」

私が返事を出来ずにいる間に、前の列の空いたイスにこちらを向くようにまたがって腕に顔をうずくませながらこちらを見つめてくる銀ちゃんは卑怯だ。余計どんな顔すりゃいいのかわかんない。

「ねぇ、お願い〜!ちゃん顔上げてよォー。とっておきの土方君の秘密教えちゃうから。」

チラとまだどうすればいいのかわからない不安を隠せないままそちらを見ると、目の合った銀ちゃんはそんな私の表情も気にすることなく、いつものように笑っていた。

「あいつ、となりのペドロの大ファンでさぁ、この前なんて1人でとなりのペドロ見に行っててさ『やられたよ・・・大人の鑑賞にも堪えうる映画だ、いや大人こそ見てほしい映画だ』なんて言ってマジ泣きしてんの!もうそれはグズグズグズグズ鼻すする音がうるさくってさぁ・・・。」

銀ちゃん独特のだるそうだけど、聞いてると様子がありありと伝わってくるような臨場感溢れる話し方といつもの下らない話に、私はどうしても耐え切れなくなってふっと笑いをこぼすと、

「いや、俺は別にとなりのペドロ見に行ったわけじゃないよ?別に実1人で見に行っちゃうほどのファンとかでもないしぃ、ただ俺は期間限定のハニーストロベリーキャラメルポップコーンをだな・・・」

私が何も言ってないのに独りでに相も変わらず喋り続ける銀ちゃんについに私も吹き出すだけじゃなくて、笑い声を上げる。それからは、気が付いたらいつもみたいに私がつっこんで、銀ちゃんがまた面白いことを言って、私が笑って、それで銀ちゃんが笑う。いつもの光景が戻ってきていた。



どれくらい話してたんだろうか。
笑いすぎて、笑い疲れて、自分の腹筋を落ち着かせる頃には、もう笑って前みたいに普通に銀ちゃんと向かい合っておしゃべりが出来るようになっていた。

「そんじゃ、俺仕事戻るわ。」

去っていった背中に私はもはや不安と疑問とかそんな負のものは一切なくなっていた。



やっぱり銀ちゃんは不思議だ。

銀ちゃんの話は凄く下らないけど、面白い。

からかってくるけど、憎めない。

下らなくて、ちょっとむかつくそんな人とのお喋りがいつの間にか自分にとって大切な時間になっていく。

銀ちゃんと話してると自然に元気になれるのだ。

どんな顔をすれば、なんてそんなことで悩んでた私。

むしろお礼を言わなければならないのはこっちの方なのに。

私は何をしていたんだろう。

銀ちゃんが聞いてこないなら、それでいい。

今はそれで前みたいに笑っていられる。

心の整理?

そんなのはまだ何も考えていない。

けど銀ちゃんなら足の踏み場さえあれば何とかしてくれる。

片足で重心を保とうと必死な私の傍にどんどん荷物を積み上げていって、倒れる怖さを私に与えるような人じゃない。

私を脅かすような人じゃない。


私はもう行ってしまったそのドアに向かって呟いた。


「ありがとう。」








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