V-07
少しだけ煙草臭い部屋の匂いと、小汚いけど、どこか馴染みを持てる机とテーブル。塾長室に置かれるそれに私は腰掛けた。お邪魔します、と少し緊張した小さな声を添えて。
「どうぞ」と返しながら、手にぶら下げていた紙袋から出したお菓子の箱の包装紙をビリビリと豪快に破いていく音がやけに大きく部屋に響く。なんとも塾長らしい開け方だ。
「そんなに硬くならなくてもいいんだよ。あんた、最近頑張ってるみたいじゃないか。よくここに来て勉強してるって銀時達からもよく聞いてるよ。」
そう優しい笑みを口元に含みながら、渡してくるお菓子の箱を受け取ると、私はまた下を向いてしまう。
「確かに・・この3ヶ月間ほぼ毎日ここに来てます。・・・けど、私は本当に・・・勉強をしに来てるのかなって・・そう、さっき悩んでました・・・」
手に掴んだままのせんべいの袋に歪んだ私の顔が映る。ビニール袋に反射して映る私の顔は、グニョングニョンに曲がっててよくわからない。
私は笑っているんだろうか。
悲しそうな顔をしているんだろうか。
「そうかい?それでも私にはあんたが結構変わったように見えるがね。」
ボリボリと塾長がせんべいを貪る音が鼓膜を震わせている。
変わった?
塾長の言わんとしていることがわからない私は塾長へと目線を移した。
「あんた表情や雰囲気が柔らかくなったよ。それに、勉強に対する姿勢や表情も。実はね、私はあんたのことちょくちょく目に入ってたんだよ、あんたがここに来てくれるようになったのもあってさ。・・自分自身でも勉強についての思いは少しは変わったんじゃないのかい?」
それでもまだ私は真っすぐと塾長の顔を見て話せない。
「勉強は・・好きになりなりました。解いてて楽しいし、でも」
「好きこそ物の上手なれ。」
不意にことわざを宣言した塾長に私は再び顔を上げる。
「そんな言葉を知ってるだろう?」
正面から今度は突然私の方へ目を向け直し、思わず目のあった私はただコクコクと頭を縦に振った。
「勉強はまず好きにならなきゃ進まないんだよ。先に進むにはもう自分次第、努力なくしては進めない。しかし、まず好きにならなければ努力も続かない。にわかに始め、進み続けることの出来る世界じゃない、この受験勉強は。それを楽しまなきゃ始まらんし、続かんのさ。楽しめるようになればあとはこっちのもん。それをわかってほしくて私らはこんな仕事やってんのさ。それに実績がついてくりゃ、大した儲けもんって話なだけさ。」
真っすぐと背筋を伸ばして正面を見据える塾長の目には迷いがなくて、強い瞳だった。
あれ、私、この瞳を知ってる。
「それに、あんたがここを1つの居場所として用いてくれてるのは、塾長として私は素直に嬉しいことだよ。」
言葉を終えた塾長は私に微笑みかけると、またせんべいを食べることを再開する。その横顔に私は目が動かせなかった。
私の心の中の雨雲はどこかへ消えてしまった。
雲から顔を出したお日様は私に暖かい陽だまりを作ってくれた。
私は、いつのまにか取り戻した笑顔に塾長への感謝がじわじわと胸に沸いてくる。
私はどっかで間違えてたのかもしれない。
合っててここまで来たのかのしれない。
どちらが正解なのかはわからない。
けど、いずれにせよ私はこの塾に来たことは、間違いじゃない。
確信できた。
コンコンと突然ドアがノックされたかと思うと、思いもよらぬ声がドア越しに聞こえてきた。
「おいババア、入るぜー。」
ガチャと開いたドアから見えたのはやっぱり銀ちゃんで、一瞬そちらに目を向け、彼を確認すると、私は急いで頭を下げた。
一瞬目は合ってしまった。
私はまだどんな顔をして何を話せばいいのかわからない。
膝の上でぎゅっと握りこめた拳に祈る。
お願い、話し掛けないで。
お願い、無視して。
お願い、
「あ!これ京都の老舗のせんべいじゃん!いいなぁ!ぬれせんと砂糖漬けかぁ、うーん、どっちにしよう・・。」
「入っていいとも言ってねェし、てめェにやるとは一言も言ってねェんだがな。」
「べーつにいいじゃねェか。ババが着替えするわけでもねェし、それを見たってなんの目の保養にもなんねェし、こんだけあってババアが1人でこの量食ったら糖尿病で死ぬぜ。だから俺は親切心でだな・・」
「余計なお世話だよ!!」
2人の会話が途切れて、いつ私に話が振られるのか、私はただそれに怯えて、自分を出来るだけ小さくした。
頭の上ではいつもの2人の言い合いと、「うーん、どっちにしようかな」なんて悩む銀ちゃんの声と気配が近付いてくる。
お願い、お願いだから。
今だけは放っておいて。
「あー!もう決めらんねェ。ちゃんはどっち食べたの?」
覗き込んできた銀ちゃん方の視線を振り払うことが出来なくて、でも、まだ真っすぐに彼を見て話すことなんて出来ない私は、え、あ、と釣り上げられた魚のように口をパクパクさせて、一方、目は水の中をゆく魚のように空中を泳ぎ回る。
「砂糖漬けかぁ・・・。うん、やっぱり糖分王の銀さんには砂糖漬けのせんべいだな。はい、ババアこれ書類。」
「って、だから何勝手に食ってんだよてめぇはァァァアアアア!!!」
またもや再会した2人の激戦に私は動ずるこどもなく、むしろ、2人の会話なんて全然頭には入ってこなかかった。微動だにせず、銅像のように固まっていた。
早く、ここから抜け出したい。
「あー、、呼んでおいて悪いんだが、ちょっと席外してくれるかな。あんたもそろそろ勉強に戻る頃だろう。」
「あ、はい。」
思わぬ好転機に私は顔を上げると視界には塾長だけを入れるようにして返事をした。
けど、どうしてもその横に立つスーツの男を視界から完全に外すことは出来なかった。
「ありがとうございました。失礼しました。」
必死に銀ちゃんと目が合わないように、銀ちゃんを見ないようにその部屋を去った。
顔を出したはずのさっきのお日様はどこに行ってしまったんだろう。
秋も過ぎた空気は冷たさだけを纏い、それを窓に打ち付けていた。
・・・・・next?
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