U-06
総悟先生に問題を聞き終えると、同時に肩が叩かれて振り返る。そこにいたのは銀ちゃんだった。またか、と思いつつも自然に口角が上がる。向こうも同じように笑っている。
「面談やりたいんだけどォ、今大丈夫?」
「うん。」
別階の面談室へ移動して、個室に入る。
出逢った初日あんな場所であんな出逢い方をして、そのおんなじ日にあんなものを見て、今では電話までしているというのに、こう机越しに向かい合わせで座っているのが可笑しくて笑えてくる。
「何笑ってんの。」
「そういう銀ちゃんも笑ってんじゃん。なんかこう改めて面談とかするとなると笑っちゃうね。」
「真面目にやりますよォ、銀さんとて仕事ですからね。」
の割には、私の進路カードときっと面談の内容を記録するためのものであろうノートを開いている銀ちゃんは全然やる気がなさそうだけど。急に、耳に入った「始めます。」という宣言は、普段とは想像もつかないような随分堅苦しいものだった。
切り替え早ェな、オイ。
「宜しくお願いします。」
「えーと、まずは始めに・・出席状況ね、って問題ねェか。ほぼ毎日いるし。」
ノートに記録しながら呟かれる独り言にまたふと笑いを浮かべながら、私も心の中で独り言を呟く。
ま、毎日来るようになったのは銀ちゃんが来てからなんだけど。
「志望校とか決まってねェの?あとは、とってる授業で問題とか。恋愛事情とか。」
「いや、最後の意味わかんないから。とってる授業で問題は特に無し。志望校とかは特に決めてないけど、理系で受験するっていうのは決定してるかな。」
「ふぅん。なんで理系なの?」
「最初は本当になんとなく社会とか国語やってる時より数学とか理科やってる時の方が楽しそうだなっていう直感だったんだけど、ここの塾来てから数学好きになったんだ。んー、っつっても、好きっていうだけで、学校の成績大して変わんないから、親には本当に勉強してんのかって言われてんだけどねー・・・」
母親のことを思い出すとどうしてもうまく笑えなくて、銀ちゃんから注がれていた視線から逃げた。こういう話題を目を見て誰かに打ち明けるのは、どうも苦手だ。
「お母さんって仕事してんの?」
「うん。うち母子家庭だし。忙しいみたい。だから、いつも朝昼晩コンビニ食の時とかザラにあるし、帰ってもやっかいもの扱いされてる〜。仕事増やすな、って・・・って女の子だからご飯くらい作れって感じだよね。ごめん。」
他人に話していると母親がいつもガミガミと言うご飯作れだの、掃除しろだの、家事くらい娘がやらなきゃいけないことなのかななんて思えてくるも、母親に対してどうも素直に手伝ってあげようという気持ちにはなれなくて、でも、銀ちゃんに家事をしない自分が優しくないだらしのない女の子って思われるのも嫌で、まだどうもうまく笑えない。きっと作り笑いが見え見えだ。
銀ちゃんが何も言わないのが、女の子として呆れたからなのかななんて思ったら、私ってどうしようもない子なのかなとかまで思えてきちゃって、余計気が滅入る。何とか堪えるように目を閉じた。
銀ちゃんにも呆れられたかな。
これでお気に入りじゃなくなっちゃったかな。
そうだったら、寂しいなぁ。
銀ちゃんの反応を確かめるのが怖くて、顔は上げられなかった。私達に流れる音無き時間の私の目のやり場は、ひたすら自分のスカートだった。
「・・よし!じゃあ・・・」
銀ちゃんがいきなり沈黙を破ったものの、何かをメモする音に私が恐る恐る顔を上げると、私の目の前にいる彼は机の上の紙に注目するように白い紙に書かれた文字を指差している。なんだろうとツンとする鼻の奥の感覚に耐えながら、その文字を覗いた。
『今日塾の後、ちょっと時間ある?』
紙の上に書かれた文字は、男の割には随分と達筆な字が並んでいて、顔からは想像も出来ないような綺麗な文字にちょっと唖然としながら、それよりも筆談で書かれたこの言葉の意図が良くわからない私の頭にはクエスチョンマークが湧き出る。帰りが遅くなると母親が食卓に着くと同時に始まる『おはなし』を聞きたくないので、普段はめったに塾の帰りにどこか寄ることはないのだが、特に美味しいホカホカのご飯と笑顔で娘の帰りを心配して、玄関を開けると温かい笑顔で出迎えてくれる家族がいるわけでもない。私は、戸惑いながらも頷いた。
別に私とて、そんなものに期待をしているわけではない。けど、ただ「ただいま。」って言ったら「おかえり。」って返してくれれば、それでよかった。温かいご飯を作っておいてくれなくても、「1日お疲れ様。」って言ってくれれば、「お母さんもお疲れ様。」って素直に笑顔で返せる気がするのに。どうしてなんだろう。どうしてお母さんはああなんだろう。どうして私は素直に手を差し伸べてあげられないんだろう。その一歩を譲れないんだろう。なんで2人してこうなんだろう。
何度、どこの道を選んでも同じ道に帰ってくる森の中を彷徨ってるみたい。
私の心はいつこの森から出られる?
いつ答えが出る?
『じゃあ、塾終わったら電話するからどっかで時間つぶしておいて。飯食いに行こう。』
机に再び差し出された紙が下を向いている私の視界に入った。読み終えた目で考えなしに銀ちゃんを見上げると、ニッと笑った後、すぐに自分の口元に人差し指を立たせた手を持ってくる。このポーズはナイショのサインだ。
呆れられたと思っていたし、しかも仮にも私は生徒であり、先生どころか塾長代理の人がこんな誘いをしてくれることは想定の範囲外だった。だけど、驚きよりも喜びの方がずっと大きくて、反射的に大きく頷いていた。
今は、優越感とかそういうものよりも暗い迷路に正に今から自らの足を踏み入れるその瞬間を止めてくれたようなこのタイミングが、私には凄く嬉しいものだった。自分でも知らない内にさっきの心の黒いモヤモヤはあっさりと消えていて、目尻に浮かんでいた雫も消えていた。本当に不思議なほどに。
「じゃあ、優秀なちゃんは、特に問題がないので面談も終わり。とっても参考になったから、これからもよく精進するように!」
わざとらしい凛々しい表情にふっとまた口からこぼれる吐息を紡いで、はい、小さく返事をしておいた。
・・・・・next?
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