U-04



あの日の晩、帰るのが遅いだの、メールしても帰ってこないだの、電話してても通話中だの、リビングのドアを開けて開口一番説教の嵐。

折角一時取り戻した正常心を危うく持っていかれそうになったけど、あまり真剣に相手をすべきでないと冷静な判断をした私は、ただ黙って話を聞いていた。「わかった?」「わかってるの?」「わかるの?」って言われたら、自分の気持ちを無視して、ただ「はい。」って答えた。でも、塾にはまだ通いたいということと、最近やっと勉強が楽しくなってきたということだけははっきりと伝えて、銀ちゃんに貰った振込用紙を食卓に置くと私はリビングを後にした。後のことはよく覚えていない。ただ無性に早く明日になって塾に行きたいと寝転がったベッドの中で思った。




翌日、朝早くに目が覚めた私は、母親の眠る家を朝食も食べずに出た。化粧と着ていく服を選ぶのに多少手間取ったけど、まぁ起きなかったからよしとしよう。
自習室のドアノブをひねると、自習室にはまだ2,3人しか居なかった。けど、広すぎもしないシンとしたその部屋が、私には家よりもずっと広く感じて、ずっとずっと心地よくて、いつもの一番後ろの隅の席に腰を下ろし、机に突っ伏す。

あぁ、安心する。
ここは私の居場所なんだ。
心の拠り所なんだ。

心地よさにほんのりと眠気がこみ上げる。しかし、寝てはいけない、と重たい体を持ち上げて、空っぽの胃袋を満たすべく、近くのコンビニを目指した。

いつもの近くのコンビニに入って、おにぎりを選んでいると、ポンポンと肩を叩かれる。
何だろうと思いつつ、後ろを振り返ると、そこに立っていたのは。

「土方先生!」

ビックリしながらも、その名を口にするといつものように「よっ。」と手を上げた。

「ど、ど、どうしたんですか?今日シフト入ってましたっけ?」

「いや、入ってねェ。」

「あれ?そんじゃなんでここに?」

「英会話スクール、ここの近くの通っててよ。偶然だな。」

「そうですね。最近あんまり会ってなかったからビックリした。」

「そうかぁ?俺の週2,3日はあそこにいる気がするが。」

自分が無意識に発した言葉にハッとする。2,3日会わないだけで『最近会ってない』と感じた自分の感覚に驚いたのだ。最近の私は、ほぼ毎日あそこにいる。銀ちゃんは塾長の代理としてほぼ毎日いるし、銀ちゃんが休みの日でも総悟先生がいる日には欠かさず来てる。総悟先生は、大体週4〜5日と結構シフトに入ってるから、最近毎日あの塾にいる私は、ほぼ毎日銀ちゃんや総悟先生と顔を合わす。そのペースが、感覚が、いつのまにか自分の『当たり前』になっていた。以前は、総悟先生のいる日を狙って週3〜4日しか塾に行ってなかったから、そんなこと感じていなかったけど、自分でも気付かない間に『毎日会うこと』=『普通』になっていたんだ。

「まっ、確かにお前、最近毎日いるみたいで、なかなか頑張ってんじゃねェか。」

褒められたことと、そんな変化に気付いていてくれていたことが、なんだか気恥ずかしかった。

「先生こそ、今日なんかいい匂いするし、香水つけてるなんてちょっと意外。」

その気恥ずかしさを隠すように目線を土方先生の靴元へ移す。

なんだか顔見るの恥ずかしいや。


「まっ、俺はどっかの誰かさんみたいに塾でも女の目ェ気にするような奴じゃねェんでな。」

その皮肉っぽい言い方から考えても、内容から見ても、きっと『どっかの誰かさん』っていうのは総悟先生のことを言ってるんだろう。土方先生も生徒からは結構人気があるし、いくら相手は女子高生といい、総悟先生みたいに多少は女の子からの目も気にしているのかと思っていたものだから、その言い草に少し不意を突かれた。

「っと、話しすぎちまったな。俺、そろそろ行くわ。お前も勉強頑張れよ〜。」

土方先生は風のように過ぎ去っていった。

うーん、やっぱりどっか取っ付き難いというか、違うんだよねぇ。
わかんないんだよねぇ、土方先生って。

そんなことを考えながら、私は、朝にはとっておきのサラダパスタとお供の紙パックティー手に取った。






朝食を食べながら、もくもくと単語帳に目を通していると、勢いよく自習室の扉が開いて、コツコツという響く靴の音が私の頭を上げた。小走りで入ってきた銀ちゃんは、机から何かを取り出すと、また小走りで出て行こうとする。その姿を目で追っていると、一瞬目が合って、その瞬間ふっと笑ってくれた。その笑顔に、こっちもつられて目尻が緩む。
バタンと閉まった扉を見送って、私も自分の勉強を再開する。


私の口角はいつの間にか上がっていた。








・・・・・next?