U-03



何も考えず、走りついた先は、自分でもなんでかよくわからなかったけど、塾だった。
塾を出るチューターに会うのも、塾の生徒に会うのも嫌だった。
なのに、私は何故かここにいて、気付けば人の気配のない階段を私は駆け上がっていた。

人の声はもうしなかった。

電気の消えた静かな廊下を私はただ無心で駆け上っていた。




全速力で上った階段の廊下で出くわしたのは、ちょうど自習室のカギを閉めるところの銀ちゃんだった。

一瞬、銀ちゃんと目があったけど、泣いてた顔を見られたくなくて、顔を背けて初めて思う。

私、なんでここに来たんだろう。

誰に、何をしてもらいに来たんだろう。

「お前、」っていう小さな声から、こんな私を見て驚く銀ちゃんが目に浮かんだけど、顔は上げられなかった。

なんで塾に来たのかわかんなかったけど、会ったのが銀ちゃんで、銀ちゃんでよかったって気持ちとここでこんな状態で銀ちゃんに会ってしまったっていう気持ちが同時に同じくらいあふれてきて、それを追うように音もなく、また涙が出てきた。

銀ちゃんが何も言ってこなくて、鼻がツンとした。

でも、いつ誰が教員室から出てくるかわからないから、必死に言葉を捜した。


「月謝の、振込み用紙・・・ほしい・・です・・ある?」

しゃくる喉を押さえるように短く単語を並べた。そのまま下を向いていたら、「ちょっと待ってな。」という優しい声と共に頭にほんの数秒ぬくもりを感じて、銀ちゃんは教務員室へと入っていった。「ババア、振込用紙どこ?」「ババアって呼ぶなっつってんだろ!」という銀ちゃんと塾長の大きな声が壁越しに聞こえて、まだ頭に残る銀ちゃんの手のぬくもりに私は少しだけほっとした。



鼻をすすっていると、カチャとドアの開く甲高い音がして、誰かなとヒヤヒヤしながら相手を確認すると、白い紙を持った銀ちゃんだった。「ん。」と渡されたその紙には青い文字で振込取扱票と書かれていて、右上には090からはじまる携帯番号が書かれた付箋が貼られている。

「それ、俺のケー番。俺、あともう少し掛かるから一緒に帰れねェけど地元着いたら電話しろよ。駅から家まで距離あんなら、ちょっと話せるだろ?」

「う、うん・・」

付箋の内容に少し驚いて何も言えないまま、「そんじゃもう遅いし、ババアもそろそろ来そうだから。」と言いながら私達の横にあるボタンで呼び出されたエレベーターに乗り込んだ。

人の少なくなったこのビルのエレベーターはボタンを押すとすぐに来たから、本当に何も言えなかった。

「気を付けて帰れよ。」って言ってくれた銀ちゃんの顔が凄く優しい顔をしていたから、なんだか急に凄くほっとして、涙が乾いたパリパリの頬にひびが入った。






地元の駅に着いて、電車の中で剥がした付箋をポケットから取り出した。

掛けてもいいのかな。

その迷いが私が発信ボタンを押すことを躊躇わせていた。

携帯のディスプレイにはもう11ケタ目までうってあった。

あと1つ、ボタンを押せば、銀ちゃんへ繋がる。


私は意を決して通話ボタンを押した。



「もしも「あー、やっとかけてきたァ。俺をケータイの前で正座させて待たせるなんて、今後含めてちゃんか結野アナくらいだな。」

もしもしを言い終える前に、いつもの調子が電話から聞こえてきて、緊張して加速していた心音が一気に凪いでいく。

「とーもーかーくー、教えるのはちゃんだけです。あー、もう俺って本当にちゃんには甘いんだよねェ。マジで秘密だからね?いい?わかった?ってちょっと聞いてる?」

銀ちゃんが「ちゃん」と読んでくれる声が今はひどくありがたい。ほっとする。まるで、精神安定剤みたいだ。さっきまでの苛立ちも、冬から春の季節の移ろいに消えてゆく雪のように、ゆっくりとゆっくりと消えていく。
返事をしない私に休みなく銀ちゃんが喋っている。

「聞いてます。銀ちゃん、その、ありがとう・・・」

本当にありがたいと思ってるけど、だからこそさっき泣き顔を見られたことが今更ながら恥ずかしくなって、声がフェードアウトしていく。

「え、何?聞こえない!もう一回俺に感謝の言葉を!」

「聞こえてんじゃん!」

「え、聞こえてない。まっ、ちょっとは元気になったなら安心した。けど、お前んち遠いんだなァ、意外と。」

「そう?あ、まぁうちは家が近所だから通ってる人が多いもんね。銀ちゃんは今どこ?」

今、誰かと話すことが出来て、私は凄く心が休まっている。もしも、銀ちゃんがさっき電話番号を渡してくれていなかったら、きっとこの道で秋風が私の心にぽっかりと開いた穴を通っていって、その風が私の涙を運ぶ道を歩いていたのかもしれない。もしも、銀ちゃんが・・思い起こしてみると銀ちゃんがあの時居てくれたから、こうしてくれたから、私は助けられたと思えたことがたくさんあったのかもしれない。あの時も、今みたいに銀ちゃんに励まされてた。あの時も、銀ちゃんが居た。思い返せば返すほど、ポンポンと浮かんでくる。
口では他愛ない銀ちゃんとの話を進めつつ、頭はずっとそのことを考えていた。

雲に隠れた月がはっきり顔を出す。

風は光も運んでくれるんだ。

黄金色の月光が夜道を照らしている。

私は、1人じゃない。



「あの、銀ちゃん。」

「そろそろ家着く?」

「うん、それもそうなんだけどね。今日は本当にありがとう。振込みのこと、ちゃんとお母さんに言っておくから。」

「おう、けど嫌だったら塾から電話するから。またなんかあったら今日また電話掛けてもいいし、会った時でも言えよ。」

「ありがとう・・じゃあ、」

「あ、待って!そういやちゃん、俺との面談してねェな。明日やるか・・うん、明日します!と、いうことで、明日待ってるから良い子は早く寝るように!あ、ちゃんとお風呂にも入ってね。」

「わかってるよ、おやすみ。」

電話を切ったのは自分の方なのに、ツーツーという機会音を聞くと、また無性に寂しさがこみ上げてきた。けど、このまま甘えっぱなしはダメ。ちゃんと向き合わないと。大事なものくらい、自分で守らなきゃ。

夜空に浮かぶ雲ひとつない月に誓って、私は家へと入っていった。








・・・・・next?