T-01



暗号のように並ぶ数字と英語の羅列をノートに写しながら、考えることに疲れた私は目の前の机に突っ伏した。はぁ、とため息をついても疲労はぬぐえない。勉強すること、それが私たち学生の仕事なのだから。わかってはいるものの、もう手を動かす気が起きないところで頭に物凄い重みがかかる。

「さっきの問題解けてねェくせにサボるたァ、いい度胸してますねィ」
「ちょっと・・・総」

言いかけたところでようやく開放された頭をあげるとニヤッと笑ったヤツがいた。
沖田総悟。
それは、この日本人とは思えないような綺麗な顔立ち、ミルクティー色の髪、透き通った白い肌。おまけに私の2個上で、この町の小さな学習塾『登勢塾』の所謂チューターでもあったりして、頭も良かったりする。まぁ、悔しいけど、モテるのは言うまでもなし。また、その総悟先生に私も想いを寄せている一人だなんてこともなんていうこともまた言うまでもなし。

「そんなつもりじゃなかったんですけど。ちょっと疲れて休んでたところだったのに・・」

机に押さえつけられたおでこをさすりなら答える私に
「へぇ、で、解けたのかィ?」
見透かされたような目にで睨まれる。

「いや、それは・・・」
はは、と困ったように眉を下げ、苦笑いしていると、「ちょっと見せな。」と私の返事を聞く前にさっと問題集と私のノートを奪って、頬杖をついて眺めだした総悟先生を見ていて、『今この瞬間だけは私だけの総悟先生』、なんて考えちゃうあたり、私の頭も大分キてると思う。

1分もたたない内に、
「あ、これお前計算ミス。」
「えっ?!うそ?!どこ・・!」

指でトントンと示されたところには4X+3X=12Xという文字が。
あれ、なんで?

「あ〜・・・」

はぁ、とため息をつきながら消しゴムでその行を消しにかかる。
いっつもそうだ。総悟先生に見てもらうときは、計算ミスとかは恥ずかしいし、情けないから、そういうミスでは頼らないようにしようって決めているのに。結局、問題を丸まる解説してもらうのも、解くための指針だけ聞くのも、ミスを見つけてもらうのも、数学も、物理も、化学も、英語も。ぜーんぶ、総悟先生に解決してもらってしまう。 よくないな〜なんて思いながらも、結局いつも総悟先生に頼ってしまう自分に萎え。

「でも、考え方は全部あってる。これ、割と難しめなのによく出来たじゃねェかィ。答え出るかやってみな。」
「・・・はい!」

さっき総悟先生に見つけてくれたミスを直して計算していく。私が解いている間、横から視線を感じ、恥ずかしいながらも、ドキドキしてしまう。
わかってる。総悟先生が見ているのは私じゃなくて私が書いてるノートの数式!勘違いするな、私!早く。早く。答えを導き出さなくちゃ。出ないと私の心臓は破裂してしまう。

「「あ。」」

「解けたー!!!」


思わず声を上げる。

「総悟先生!ありがとうございます!解けたの先生のおかげです!」

いつも問題が解けたときにはお礼を言う。 嬉しそうにする。 『総悟先生』って呼ぶ。 それが、私の中で決めていること。

「当たり前でさァ。俺のおかげに決まってらァ。じゃあこっちのやつ、一人で解けるか解いてみな。ヒントとかなしだから。」
「えぇぇぇええええええ!もう今日はやるつもりなかったのにぃ・・・・・」

私が肩を落としていると、

「優秀なさんなら出来るだろィ?」

その声に私の耳がピンと立つ。

「後でまた回りに来てやるから。」

えっ!その一言でぱっと顔をあげるとニィっと笑った総悟先生はくるっと回って、手だけをこちらに振って行ってしまった。



すき!好き!!総悟先生マジかっこよすぎる!!「後でまた来てやるから。」だって!キャー!
「また」?!「また」だって!

私は、総悟先生がいなくなったことをいいことに、自分の頬に手を当てて目を瞑って心の中で叫ぶ。
総悟先生はいつだってそう!私が困ってるとき、問題で解けなくて行き詰っちゃったとき、いつでもタイミングよく現れてくれるの!まるで私のスーパーマンみたい!説明も学校のオヤジやババアとかよりも、ここの先生の誰よりもわかりやすいし、かっこいいし、いけめんだし、喋ってて面白いし、かっこいいし!かっこいいし!それに加えて爽やかなの!

はぁ、とさっきとは違う甘いため息をついて、ようやく目を開ける。
よし!総悟先生が次回ってくるまでにこの問題解いちゃって、別の質問考えておこう〜♪
そう心に決めた私は、またノートにシャーペンを滑らせる。
総悟先生がついていてくれるときの私は強い。問題集なんてたった総悟先生が回ってくるペースである約15分足らずで2ページも進んじゃう。一人で家で勉強するときは、1ページ進めるのに1時間掛かることだってあるのに。総悟先生の力ってやっぱ凄い!
さっきの疲労感は嘘のように私からは消え去っていた。






2ページ進んだところで、問題集もその単元の終盤に差し掛かり、難しくなってきた。
私もさっきの勢いはどこへやら。再びダラダラモードに入りだしそうってところまできていた。


総悟先生はというと・・・今はとある女の子の横に座って教えている。
総悟先生の手にあるのは、『生物 セミナー(上)』と書いてある。
総悟先生、生物受験科目じゃないじゃん・・・。
総悟先生といえば、いろんな笑顔をその子に向けている。優しい笑顔。悪戯っ子みたいな笑顔。吹き出してる顔。コロコロと表情を変える総悟先生は、紛れも無く私の知らない、私の隣では見せることの無い『総悟先生』だった。耳を澄ませてみれば、「は、」「って、」、名前が何度も会話の中に出てくる。それに返すような「だってそれは総悟が」「総悟は」という女の子の声が聞こえてくる。

知らず知らずの内にそれをぼーっと眺めていた私は、ため息をついて見るのをやめた。
手に握られたままのシャーペンで、ノートをぐるぐると小さい黒い丸を描いていく。
別に嫉妬とかじゃない。あの子が嫌いなわけじゃない。普通に可愛いもんね。仕方ないよね。可愛い子だったらそりゃ、あんな顔を見せることもあるよね。総悟先生は誰にでも優しいからあんな顔も見せられるんだよね。でも、総悟先生って呼んでるのは私だけだもん。「沖田さん」でも「総悟」でもなくて「総悟先生」って呼んでるの、私だけだもん。物理とか化学とか、あの子は質問できないけど、私は理系だから質問できるもん。嫉妬とかじゃないもん。嫌いとかそういうの敵視してるみたいで、勝手にライバル意識、みたいな?ばかみたいじゃん。そんなんじゃないもん。違うもん。

私の疑念を打ち消すように、今度は落書きした黒い丸を消しごむで消しだした。
丸、小さくてよかった。

「おい、行き詰ってんのか?」

ふっと振り返ると、そこにたっているのは土方先生だった。

「あ、土方先生。そうなんですよ〜。じゃあ指針だけ教えてもらっちゃおうかなぁ〜。」

そう言って隣の荷物をどかすと座ってきたこの人は土方先生。下の名前は、十四郎。じゅうしろうだと思って、聞いたら怒られるどころか酷く困った顔をして目を瞑っていたからよく覚えてる。漫画で、こういう『ι』汗のマークが似合いそうな。そういえば、このギリシャ文字ってなんて読むんだっけ。

土方先生は、総悟先生と同じ大学の二年生だから、総悟先生の1個上。だから、私の3つ上。そんでもって、総悟先生の幼馴染らしい。いつも口喧嘩みたいなのしてるけど、なんだかんだいって仲良しなのは見てればよくわかる。見た目がちょっと怖そうなところとか、なのに優しい性格なところが、総悟先生とはちょっと違うかな。
けど、土方先生もこの塾でモテる。もしかしてそういう意味でライバルだったりするのかな・・・?

「で、この問題の解説のこの部分がわかんないです。」
「え?どこ?」
「うーん、だからこここの行からここの行までが何を言ってて 「あーそれは、はさみうちの定理を使うためにこういう数字もってきただけ。要はこじつけみたいな。」
「あー、そっか!」
「終わり。」
と勝手に終わりにされちゃったんだけど、なんでそこで、はさみうちの定理を使うのかがわからない。これ、別にその定理の証明じゃなくないか・・・?これ使うと便利ってことかな?まぁいいや〜、総悟先生に聞こうっと。

「はぁ〜、疲れた。総悟に糖大の過去問英語一年分丸投げされた。『俺にもわかんねェ問題が1個あるんで頼みまさァ、土方さん』なんて言われたからその生徒のところに行って見れば、『これ、解答ないんで解いてください。』なんてことになるとはな・・・完全にはめられた。あいつ殺す。」
「ははっ、総悟先生うける。でも土方先生も嫌なら逃げちゃえばよかったのに!」
「そういうわけにもいかねェだろ。一応教える立場だし。そんなことして許されると思ってるのはあいつだけ。それに糖大の過去問なんて絶対解いたはずなのに解けなくなってるのも、解けないと思われるのもぜってー勘弁だしな。」

そういっている土方先生は、私の横で今日の報告書を書いている。

土方先生は嫌いじゃないけど、先生としてはやっぱり総悟先生には劣ってる。まぁあくまでも私の中での話だけど。それに性格も、総悟先生みたいなちょっと、その、Sっぽいというか、そういう方がかっこいい。って何言ってんだ、私。
報告書を書いてるとはいえ、沈黙が流れてしまっているので私は急いで話題を探す。

「土方先生と総悟先生ってなんでこの塾で働いてるんですか?総悟先生とか特に『先生』なんて面倒くさがりそうなのに。」
「それは、これの割がいいからだよ。」

土方先生を見るとOKサインの手をくるっと逆にしたポーズをしてる。

「へ?」
「へ?じゃなくてここがそれなりに時給が高ェってこと・・・なんといっても多少遅れても、休憩長くとってても、割とバレねェ・・・生徒に色々と物借りても目の前でやらなきゃとやかく言われねェしな。あっ、アイツに漫画返さなきゃ。」
「なっなにそれ・・・!」

その手のポーズはお金の意味だったのね・・・!
意外な土方先生の言い分に少々驚く。

「つっても!・・・・・総悟の野郎は・・・・」

さっきまでの冗談を言うような空気とは一気にうって変わって、笑いを含んでいた土方先生の顔が一気に曇る。怒りを灯したような、やるせなさを灯したような。その静かな瞳の炎は、自分に対しての怒りなのか、それとも総悟先生へのものなのか、私にはわからなかった。

「やりすぎだな、色々と・・・・」

小さくなっていくその声を聞き漏らさないように私は耳を澄ませながら、土方先生は下に向けていた視線を、突然私に移す。

「お前、総悟の家族構成とか知ってたっけ?」
「確か、ミツバさんっていうお姉さんがいらっしゃるんですよね!凄く美人って山崎先生から聞いたこ、と・・・が・・・・・・・」

『ミツバさん』の名前を出した途端、土方先生のこめかみの辺りがぴくっと動いたのを私は見てしまった。そして、私に向かって鋭く注がれるその視線に、思わず言葉が続けられなくなる。

「お前、アイツのこと知ってんのか?」

まるで、大罪を犯した犯罪者を尋問するように鋭く尖った視線を放つ目は、しかと私を捕らえている。息をするのも緊張するような凍った空気に、私は、いえ、とその2文字しか答えることが出来なかった。

「・・アイツが倒れちまったって時に、俺らがしょうもねェ奴等と下らねェ喧嘩してて家に帰れなかったら、発作にすぐに駆けつけられなくってよ。・・・そんで、総悟の姉貴は1年前に・・・」

そこで、まるでここに誰も居なくなったような静寂が突如訪れた。
私は、その先の言葉がなんとなく予想出来たけど、ただ何も言わず、どこかぼーっとした土方先生の横顔を見つめながら、話の続きを待った。

「悪ィ・・・なんでもねェ。」


しかし、土方先生は私に目を合わすことなく、普段では見掛けられない類の苛立ちと悔しさと悲しみを交えたその瞳をただ床に向けている。
私は何も言えなかった。私が深く突っ込んでいい話ではなさそうだったし、なんとなく、土方先生を傷つけてしまう気がして。




それからまた沈黙が流れたが、その沈黙を破ったのはまた土方先生だった。

「っつーことで、今日はこれにて終了。お前も早く帰る準備しな。」
「へ・・・?」

土方先生は指をさした方を目で追うと、壁にある時計は10時を教えていた。


「まぁ、あいつのあんな癖が出来ちまったのも俺のせいかもな・・・」

独り言のようにそう呟いた土方先生は、さっき書きかけだった今日の報告書を私の視線も気にせず、スラスラと埋めていく。
「あいつ」っていうのは、やっぱり総悟先生のことなんだろうか。あんな癖ってどんな癖?
気になるところは沢山あったけど、何から突っ込んでいいのか、むしろこの話を掘り下げてもいいのかわからない私は、ただキュッと自分の参考書を握り締めることしか出来なかった。
そして、報告書を書き終えたらしき土方先生は「お疲れ。」と言って、行ってしまった。

私は準備しながらも、廊下から聞こえてくる総悟先生への土方先生の怒声を聞いて苦笑しつつも、心にずっと引っ掛かっていたのは、やっぱり土方先生の言葉だった。

廊下をチラと振り返れば、怒鳴り散らす土方先生に、それを体を張って抑える山崎先生。全然ビビってないどころか澄ました顔した総悟先生。そして―――その傍らで微笑む少女。嶋田さん。総悟先生と嶋田さんは、顔を見合わせて笑っていた。


あぁ、やっぱり気に入らない。


参考書がメリと音を立てたところで、はっ我にかえり、ロッカーに参考書をぶち込んで、私はその日、塾を出た。


先生達の笑い声が聞こえる中で1人で小走りで進む帰り道は少し肌寒かった。








・・・・・next?